おとなとこども
3月になりました。かなり経ってしまってますが、前の記事から開いたのは、あれじゃないこれじゃないしていたのではなく、こんな感じで記事というか文章を書いてるだけでいいのかとか、誰か見てるのかと思ってたところからです。すいません。
でも、今のこの状況から思ってるところを書いたほうが後で思い出せるし…ということで始めたのでちょっとですが文章にしようかなと想ってます。
さて、本題なのですが、よく子供やお年寄りの方に対して接するときのあの口調、思い出していただけると思います。
自分が子供時代は「ぼく〜?」に代表される、相手の目線に立つときに放たれることばがありますが、私はこれが苦手というか嫌いでした。ひねくれているよなという自覚はあります。そのときは「何やねん、子供扱いしやがって」と思ってました。どっからどう見ても子供なのですが。そのくせして特にこれといって意思も示さないし、面倒な子供だったんだろうな〜と、すごく思います。
そして、今を経てうまく行けば、高齢者になり、介護を受けるときも来ます。ほぼ間違いなく。
そのときは人の力や助けが必要なときが来るでしょう。まだ老人じゃないのでわかりませんが、自分の抱える問題は「年のせい」でなんとかなるのだろうか…?
それは置いておいて、老人への口調、あれは自分と合うのだろうか、変にひねくれたりすれたりしていなければ問題はない!と思うのですが。長く生きたがゆえの相手の立場を考えたような接し方になるのでしょうか。
全然楽しみではないです…。
つかんで離さないっ!
なんかいろいろ最近面倒ですね。
題は前向きな感じにしましたが、今回も言葉について面倒というか、時代の転換点にいるというのか、どうなっていくのかというところについてダラダラと綴っていこうと思います。
最近目立っているのは、男とか女とかそういう話です。
女性の社会進出どうこうは自分の専門外なのであまりわかりませんが、「ことば」で例えば「女らしい」や「男らしい」という言葉について女性に対しての発言でその言葉尻を掴むようにして記事になっているのを目にします。
その一方で、TVの出演者が男性に対して「男らしくない」と言っているのが問題になっていないのは、男女平等を推進していくのならばこれも同じく取り上げるべきではないかと思います。
男だからとか女だからとかよりも一人間としてその人の行いが正しいかどうかという考え方が広がっていけばよいのではないでしょうか。
他にも、外国ではladies and gentlemenという言葉がLGBTの方への配慮が足りないということで使われなくなってきているという話題もありました。日本では「会場にお越しの皆様」とかしこまった場では使用されているので問題はないと思うのですが、そう考えると「老若男女」も言葉狩りの対象になってしまうのかななんてことを考えてしまいます。
自分は幼いときからしっかりしてない人間だったので「男の子だろ!」とか「男らしくない」とか言われたので問題にしすぎると息苦しいしでももう少し考えるべきだという感じです。
ことば
ふと思い出すと、トラウマが思い出されるような言葉が何個かあります
「次はない」「どう思う」「早くして」など…他にもあったのですが忘れました…
この辺に共通するのは「ミス」です。
ミスや何かしらの「抜け」があったときに言われることが多いのですが
同じようなミスを繰り返したときに「次はないからな」と何人にも言われました
「どう思う」というのは、「こういうことされるとされた人はどう思うと思う?」ということです。
他人がどう思うか、と自分が思うことは全然違う場合がありますが、こう答えてほしいんだろうなと考えて答えることが正しいと思って答えるので、結局食い違いというか穴埋めができないまま問いに答えるような感じでした。
「早くして」は、自分なりに早くしている(自分なりだとそこで成長が止まってしまうのでだめだという話はよく聞きますが…)のに言われることで焦りが生まれ、ミスを誘発することがあることです。
頭の中で早くしないと…というのに頭の中が占有され、他のことが抜けてしまい、ミスをしてしまう、注意力が下がり、ミスをしてしまいます。
聞く耳考える頭
最近のことでいろいろ疑問に思ったことがあったのでちょっと文章にまとめてみたいと思います。
いきなり本題になってしまいますが、オリンピック会長の発言についての伝え方についてです。
最終的に、問題があったと取られかねないような発言がもとで辞任になることになったようですが、その報道の仕方がどうも引っかかります。
どの人物も平等に扱わなければならないという現代でこのような問題は慎重に扱わないといけませんが、伝言ゲーム的な報道の仕方になっているような気がします。
先週の報道の始まりでは、このような発言があり、この発言が問題であったというような感じだったように思います。しかし「蔑視」という報道、そして今日は「誰に対して」と人物を特定しての報道でした。
あの発言は正しいとは思いませんが、話を悪い方向に持っていっているように思いました。
また、今回の報道で「許せない」と言っている政治家の方々は外交の問題について「対話をすればわかる」と言ってる人が多いように思うのですが…。これも偏見なのでしょうかね。
話は戻りますが、今回の発言をはじめ、言葉によって叩くことが頻繁に見られるように思います。叩かれる存在というものは、一人しか存在してないもしくは特異なキャラクターの人間のように思います。
正直、知らない人がこのような悪いことをしていたと言われても「知らんがな」なのでイメージも何も変わりがないしそのような人が大半であることで伝える側にも何のメリットもないですが、やはり知っている人が悪いことをすることによって次の問題が起こるまで世間の関心がそちらに向くことで報道する側には「見てもらえる」というメリットが生まれます。
いろいろと知識が入ったり、自分としての考え方が変わることによって人それぞれの考え方が生まれるのですが、完全に自分の考えだけで生きていくのも、古い考えとなり流れに置いていかれる問題があります。
聞く耳を持ち、考えることが重要ではありますが、なかなか自分のことで手一杯、です。
メモ的思い出したこと
2月ですねー。
自分は2月というのは魔の月でもありまして、過去二度病院への入院があった月です。なので、特に新型コロナウイルス、風邪などの病気に気をつけたいところです。
話は変わりまして、題名についてですが本当にただふと思い出したことです。
小学生のときのことですが、伝言ゲームというものをする機会が何度かありました。
前の人から伝えられた言葉をそのまま後の人に伝えるというものですが、知っている言葉の伝言の場合は楽です。でも、造語というか○○が○○したと言うような、他の言葉でも置き換えることが可能なものについては、苦手です。
聞く→覚える→覚えたところから出す→伝える
とシンプルです。
でも、これが難しい。覚えないといけない、間違えないようにしないといけないということが邪魔をする。
今はこうやって考えられることが可能ですが、当時は間違えたら、恥をかくのは嫌だなとしか思えませんでした。こう考えると、伝言ゲームのみならず、ほかのことでも意外と嫌だと感じてることにどうしようもない理由があったりするので、そのようなことが理解できる大人がいることで一人一人のしんどさがマシになるのだろうなと考えます。
もしも学生に戻って現在の授業を受けるなら
新型コロナウイルスの流行により、オンラインでの授業、リモート授業というのが行われたところは多くあったでしょう。
なんとなく、対面でできないと不便なところがあるだろうなーとか、家だからそれはそれでいいよなーとか、思うこともありました。
ただこれは、実際に行ったことが無い人の想像でもありますので、実際はどうなのかはやってみないとわかりません。
それに、オンラインの授業がどんなものかということをニュース映像とかで見た限り、自分はストレス感じそうだなあと思うわけです。
例えば、画面を見てみると…
1、全員の顔や行動が見える
2、背景が見える
教室の授業だと、一番前はもちろん、一番後ろ、真ん中あたりの席でも生徒側から全生徒の顔を見ることは不可能です。
さらに、教室の最も後ろの端の人物の行動を一番前の生徒が逐一知ることもできないでしょう。
それに、正直クラスには苦手な人がいることがあります。
自分自身が感情をあまり表に出さなかったり、授業中に外をチラチラ見てたりしていたからなのかもしれませんが、この「見られている」状況は苦手だし嫌いです。
自分は、嫌なものはすぐ目に入ってしまうので、嫌いな人間の顔とかすぐ目に入ってきます。そのときに「何だこの顔」とか思ってその間に気が散るような気がします。これは自分が原因ですが。
あとは、背景が見える。これもストレスを感じるのではないでしょうか。
背景を別画面に変えることも可能だそうで、これはそこまで問題はないかもしれませんが、ここでプライベートがさらされてしまうな、と考えます。
プライバシーがどうこうとか言ってるわりにはそういうところは別にいいんですね?と思いますが…。
最後、授業とは関係なくなりますが、リモート飲み会いいね!って言ってた人は今もされてるのでしょうか?
あまり最近話題を聞かなくなったので気になってはいるのですが…。
長いつぶやき
今日はダラダラと長いつぶやきです
なのでいつも以上にまとまりがないのでご容赦ください
精神的な問題が体調にも出るようになってしまった自分の調子が戻っているかを確かめるために、会社で多く言われたことをノートに書き綴り振り返ることを定期的に行っているのですが、いつも頭が痛くなり、終わってしまいます。今回は冷静に書いていったのですが…やはりだめでした。
よく、だめなところも受け入れるという言葉を見聞きしますが、やはりまだ受け入れることができないのかもしれません。
柔軟な考え方を…と言われますが、なかなか染み付いた考え方は変えられない。
話は急に変わりますが、ある芸人さんへのドッキリで、小学校低学年の子供がクリーム鉄砲をその人の顔面に当ててドッキリ成功というのがありました。普通は当てられて怒りそうですが「そんな重いものを持ってナイスコントロール!」とほめていました。キャラもあるのだと思いますが…。でも、そのような感情を出すことも大事だなと思いました。
最近はテレビやラジオなどメディアを通してイライラしているなという感情を出される方が多いので、できるだけ前向きな考え方をしないと現代では生きられないなと考えてます。
さて、次をどうするかを考えるのですが、なかなか踏み切れないところがあります。
ということは選択肢があると考えることもできます。
何をやるにしても自分でいろいろやらないといけないので気持ちを高めていかないといけません。高めるための方法も沢山ありますが取捨選択を間違えないようにと思ったり、でもとりあえず何かをやらないといけないと思ったり…
頭はいつもぐちゃぐちゃになってしまう…。
すいません。落としどころが見つかりません…。